信じるものの証拠を探してますます信じる

前回の記事「創造の練習」では「もし私が必要なものも、欲しいものも、全て手にしていて、しかもそれらを失うことが絶対にないと保証されていて、自分に自信があって、自分のことが大好きで、信頼できる仲間がたくさんいてたくさんいて、自分が完全に完全に満たされているから、人にも愛を向けることのできる、余裕のある人」だったらという(フリでもいいので)視線で問題だと思っている人や物事を見てみてくださいと言いました



前回の記事をまだお読みでない方はこちらから↓



「やってみて」と言った私がこう言うのも何ですが、できます?


もちろん、できる人もたくさんいるでしょう


でも、どうしてもそうは思えないと言う方もたくさんいるはずです


なぜなら今まではその逆

「必要なものも、欲しいものもまだ十分に手に入れていないし、手に入れたものも失うかもしれないし、(自覚しているかどうかはともかく)自分に自信もないし、(これも自覚しているかどうかはともかく)自分のことが好きになれず、完全に信頼できる人なんていないし、満たされたなんかないんだから、当然人のことなんか構ってられない、心の狭い、いつもいっぱいいっぱいの私、弱い私、被害者の私」

が本当の私であると証明しようとし続けて来たのですから



私たちは、人それぞれ程度の差こそあれ、みんなそうなのです



そればっかりをやっている時もあれば、他のことに気を紛らわせていて、時々ど〜んと落ち込むというパターンもあるかもしれませんが、多かれ少なかれ、これをしています



「満たされた余裕のある私」と「弱い、被害者の私」は真逆の私ですが



私たちは常に


いずれかの私を選んで、それが本当だと証明しようとしているのです



証明するための証拠は、いくらでも見つけることができます





心理学のこんな実験があったそうです

「これが本当だという証拠を、今日は一日中探してください」と言われ、封筒を渡されます

中には「みんなが私の靴を見て笑っている」と書かれている紙が入っています



それまで、靴を笑われているなんて思いもしなかった人たちが、笑われている証拠を探し始めると、時間が経つにつれだんだん見つけるのが上手くなり、実験だと知っているにも関わらず最後には本当に笑われているのかもしれないと思う人までいたようです

なんとなく、わかる気がしませんか?



「満たされた、余裕のある私」か、「弱い、被害者の私」か、私たちは常にいずれかの証拠探しをしています


そして、証拠のストックの多い方を、より強く信じているのです



「弱い、被害者の私」の証拠を大量に抱えたまま、「満たされた、余裕のある私」だと思い込もうとするのは、最初は難しいかもしれません




でも心の片隅でほんの少しでも「もしかしたらそうなのかもしれない」と認めてあげたら、誰の中にもある「本当は幸せになりたい」という思いのパワーが後押ししてくれます



難しくても、最初はなかなか上手くいかなくても、やってみる価値はありますよ







まあ、靴は素敵なのを履きたいですけどね

Dolce fer Niente by Nana

1999年にNYのダンス学校に留学、パフォーマーとしてNYで活動 2002年より「アコースインミラクルズ(奇跡のコース)」を学び ヒーリングセンターCRSにてカウンセラー、講師として活動、2015年に帰国 ブログタイトル”Dolce fer Niente"はイタリア語で「何もしないことの甘さ」 何もしないで満たされた時間を過ごせる、心の余裕を目指します

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