心の二つのモードについて 2

愛モードと恐れモードについてさらに詳しくみていく前に、まずはここまでで学んだことを箇条書きでまとめておきます

1、私たちの心には愛モードと恐れモードの二つのモードがある

2、心は常にどちらかのモードにある(一度に両方のモードにあることはありえない)

3、どちらのモードに心を置くかは自分で決めることができる

4、同じモードにいる同士は、相手がそのモードに留まるのをサポートする

  愛モードにいる人は恐れモードにいる人が愛モードに移るのをサポートできる

  恐れモードにいる人が愛モードにいる人を恐れモードにさせることはできない


そして次に学ぶことは「私たちは意識を置いている方を経験する」ということです

愛モードに意識を置いていると愛を経験します

恐れモードに意識を置いていると恐れを経験します


愛を経験するということは、喜び、安心、豊かさ、余裕、信頼、優しさなどを経験するということです

自分の中からそれらが溢れ出す経験もそうですし、また自分がそれらを受け取る経験もあります

大袈裟なことではなくて、ちょっと誰かに親切にして「ありがとう」と言ってもらって気分が良くなるというさりげない愛の経験もあります



恐れを経験するというのは説明が難しいですのですが、恐れモードにいる時の私たちの「自分に対する思い込み」をみていけばわかりやすいかも知れません


恐れモードにいる時の私たちの自分に対する思い込みは

「自分は愛されるに値しない、価値のない存在だ」というものです

ストレートにそのままそう思っている場合もありますが、私たちの多くは「愛されるに値する自分になるように、少しでも価値のある存在になるように」頑張っているので、「自分もなかなか捨てたもんじゃないかも」と思っていたりもします

人生が順調に行っているように思えている時、「自分は愛されるに値しない、価値のない存在だ」なんて風には思っていません

ですが恐れモードにある時には「愛されるに値しない、価値のない存在だ」という核が心の中にあって、それは決してなくなることはありません


この核は、心の中にあるプロジェクターにセットされているDVDのようなものです

プロジェクターは自分の心から外側に向かって映像を投影し、見るもの聞くもの全てが「私は愛されるに値しない、価値のない存在だ」をテーマとしたものとなります

プロジェクターが自分の心の中にあるので、目の前にいる人をAさんからBさんに変えてみても、どこに行っても、経験のテーマは変わりません


経験のテーマを変えようとしたら、プロジェクターにセットされたDVDそのものを変えないといけません

取り替えられるDVDは愛モードのDVDです

愛モードのDVDのテーマは当然「私は愛し、愛される存在だ」です


ここまでの話だと私たちは「私は愛し、愛される存在だ」か「私は愛されるに値しない、価値のない存在だ」のどちらかを常に経験しているということになります

そのとおりなのですが、でもそういうふうにはなかなか実感できないのではないかと思います

日常の中で「私は愛し、愛される存在だ」とか、「私は愛されるに値しない、価値のない存在だ」とか、いちいち感じていないですよね

でも必ず、どちらか一方がテーマのドラマの中にいます


愛のDVDが映し出すドラマの中にいる時は、ドラマの中にいるまさにその時に、愛を感じています


ですが恐れのDVDが映し出すドラマの中にいる時は、いつでも恐れや、愛されるに値しないという経験、無価値観を感じているかというとそうではありません

恐れのDVDのドラマの中でも、楽しい場面はたくさんあります

でもどんなに楽しくても、心の奥にある無価値観や孤独感、不安や焦りが完全になくなることはありません

それは一人静かに座って、目を閉じて、心の奥深くを覗いてみればすぐに気づくことですが、それに気付きたくないので、私たちは常に外側から楽しい刺激を受け取って誤魔化します

楽しいこと、面白いことに心が奪われるままにしている時、恐れや不安を感じないで済みます

何かに夢中になってさえいれば、感じたくないものから逃れられます

夢中になれるものはなんでも構いません

お酒でも美味しいものでも、ゲームでも映画でも、恋愛でも仕事でも、本でも何かの活動でもなんでも良いんです

ただし「恐れモードのドラマから気を逸らすために使っているもの」を、私たちが本当に愛する、大切にするということは決してありません

それらを本当に楽しんでいるのではなく、気を逸らす道具に利用しているだけだからです




それにしてもおかしな話だと思いませんか?

恐れモードのドラマを「見たくないゴミ」だとしたら、愛モードのドラマは「自分が一番求めている宝石」です

ゴミが嫌で宝石が欲しいなら、いつでも取り替えることができるのに、取り替えようとはせずにゴミを部屋に置いたまま、楽しい刺激に意識を向けてゴミを直視しないようにしている

それが、恐れモードにいる時の私たちがしていることです


(だからこのブログ読むと嫌な気分になるかも!せっかく見ないようにしているゴミの話ですもんね!)






Dolce fer Niente by Nana

1999年にNYのダンス学校に留学、パフォーマーとしてNYで活動 2002年より「アコースインミラクルズ(奇跡のコース)」を学び ヒーリングセンターCRSにてカウンセラー、講師として活動、2015年に帰国 ブログタイトル”Dolce fer Niente"はイタリア語で「何もしないことの甘さ」 何もしないで満たされた時間を過ごせる、心の余裕を目指します

0コメント

  • 1000 / 1000