心の二つのモードについて 5

さて、ここまで読んできた中で、愛モードを「良い状態」、恐れモードを「悪い状態」だと思った方もいるかも知れません


どちらの状態もそれ自体は良い・悪いということはありません

私たちには両方の状態があるということはすでに一番最初に書きました

どっちもあって当然のものです

どちらの状態であっても、私たちの心や思いは等しく大切なものであることには変わりがありません


ですので自分の心を観察し始めて「なんだか恐れモードになってることが多いな」と思っても、それをダメだと思う必要はありません


ダメではないけど、幸せでいたいなら、できるだけ多くの時間を愛モードでいた方が断然良いです

「恐れモードがダメなわけではないけど、幸せでいたいから愛モードを選ぶ」くらいの感じです


時々は恐れモードにどっぷりハマって抜け出せないこともあるでしょう

そんな自分のことも許してあげてください

心配しなくても恐れモードのまま抜け出せないなんてことは絶対にありません


どっぷりハマってしまっている時には、愛モードに戻るのがとても難しいことのように感じますが、そんなことはありません

難しくはありません

「愛モードに戻りたい」と思えばいつでも戻れます


「思ってるのに戻れない」ということはありえません

「思ってるのに戻れない」と感じている時、それは正確には「思っていないから戻れない」のです


愛モードに戻れず、恐れモードにとどまっている時、私たちは積極的に恐れモードにいることを選んでいます

なぜかというと、恐れモードにいることにもメリットはあると思っているからです


そのメリットの一つが「丸バツリストを手放さずにすむ」ことです

先にも書きましたが、丸バツリストは自分を守るための大切なものですから、持ち続けていたいのは当然です

今までの人生をかけて書き上げてきたものなので、手放すのが惜しくもあるでしょう

長年頑なに信じてきたリストなので、手放すのが怖いのは当然です


今自分がとっている言動や態度を正当化するために恐れモードに居続けるという場合もあるでしょう

愛が動機になっている以外の言動や態度をとっている時、私たちが恐れモードにいるのは当然ですが、では愛モードに戻ったらどんな言動や態度をとれば良いのでしょう?

いつもの私と変わってしまって変に思われるのは怖いし、素直に愛を表現するのも怖いですね


また誰かを(何かを)コントロールするために恐れモードに留まろうとする場合もあります

愛モードは、人を(何かを)ありのままに受け入れます

例えば目の前にいるAさんを愛モードから見ている私は、今のそのままのAさんを受け入れているので、Aさんに変わってくれるように求める必要がありません

例えAさんが恐れモードにいてもです

Aさんの恐れや不安を通り越して、Aさんの本質、Aさんの強さ、愛、才能などが見えているんですから、「それらがもっと伸び伸びと発揮されればいいな」とは思うかも知れませんが、それでもそのタイミングはAさん自身が決めることなので、信頼して見守るのみです


恐れモードにいたら、そうはいきません

恐れモードにいる時、私は丸バツリストを持って、Aさんを判断しています

まず、Aさんが私の敵か味方かを判断します

そしていずれにしても、Aさんは私がもっと幸せになるための、安心を得るための道具になってくれなくてはいけません


もっと私に愛を感じさせてよ

もっと私を安心させてよ

自慢の家族、恋人、友達になってよ

私の足を引っ張らないで、邪魔をしないでよ

もっと私を幸せにしてよ

私を認めてよ

良い道具になれないんだったら、私の人生から消えてよ


要求は毎日無限に出てきます

恐れモードにいる時の私にとって、安心も幸せも、周りの状況が決めるものですから、全ての人にはそのための役割が割り振られます

そこから外れると


私のことをわかってくれない、気にかけてくれていない、愛してくれていない


でもそれだとあまりに自分がわがままに思えるから

「あなたのためを思って言ってるのよ」

という設定を上塗りしたりもします



お互いが恐れモードでいる時はコントロールし合いの戦いになっています

自分の安心のために、自分の幸せのために、自分が良かれと思った役割をお互いに割り振りあっています

時にはそれがマッチして関係が上手くいっているように見えることもありますが、これは取引が上手くいっているだけで愛とは関係のないものです

そしてまた「恐れモードにいる限り、全ての人間関係が対立と幻滅で終わり、そのあとは妥協と我慢で付き合っていくしかない」と先に書いたように、やがてはお互いのニーズがマッチしなくなることは、すでに決まっています


こうして書いていると恐れモードで居続けることの弊害がいくらでも出てきます

でも、この記事の初めに「愛モードも恐れモードも、どちらが良い悪いということはなく、ただの状態です」と書きました


モードはそれ自体では確かに良いも悪いもなく、ただの状態です

でも恐れモードのまま放置して、そのものの見方を通して人を判断し、コントロールしようとしてしまうと、このような良いとは言えない状態に陥ってしまいますので注意が必要です

恐れモードになってしまうこと自体は悪いことではありませんが、そのまま突っ走ってしまうことだけは、注意したいものです


ではなぜ、私が「恐れモードになってしまうことは悪いことではありません」とわざわざ書くのかというと、「悪いこと」だと思ってしまうと、逆にそこから抜け出すのが難しくなってしまうからです


恐れモードは私たちの意識をそこに縛りつけるのに「罪悪感や無価値感、無力感」などを使います


愛モードは何度も書いているように、思い込みや勝手なものの見方を手放して、物事の本質を見て、それをそのまま受け入れる状態です

もちろんそれは自分自身に対してもです

愛モードでいる時の私たちは、今のこの自分のことをそっくりそのまま受けれます

未熟なところも、ダメなところもいっぱい見えていても、それでもその奥にある本当の自分(愛)をちゃんと見ているからです

今のこのままの私を愛しているし、愛されているし、自分はここに存在していていいんだ、望まれて存在しているんだと実感できています


恐れモードはその逆です

自分は愛されていない、自分には価値がないという考えに自分を縛り付け、その証拠を自分に見せつけていくのが恐れモードのものの見方です

その恐れモードから抜け出したい時には、恐れモードをそのままそこに置き去って、ただ愛モードに戻りたいと願うだけで良いのですが、「恐れモードになっている自分はダメだ」という思いは「ダメだダメだダメだ」と思うことに意識を忙しく使って、「愛モードに戻ろう!」というアイデアが入り込まないようにしてしまうのです


ですから「恐れモードになってしまうこと自体は別に悪いことではない」と覚えておくのは大切なことなのです


「おっと、また恐れモードになっちゃってた。愛モードに戻ろう」

と、ただそう思えば良いんです


「また恐れモードになってしまってる。自分はダメだ。ダメだダメだダメだダメだ」

そんな思いは自分をますます恐れモードに縛りつけるだけです


なので、恐れモードになっている自分に気がついても、「ダメだ」と思わないでください


その代わりに「愛モードに戻りたい」という方に思いを向けてください







Dolce fer Niente by Nana

1999年にNYのダンス学校に留学、パフォーマーとしてNYで活動 2002年より「アコースインミラクルズ(奇跡のコース)」を学び ヒーリングセンターCRSにてカウンセラー、講師として活動、2015年に帰国 ブログタイトル”Dolce fer Niente"はイタリア語で「何もしないことの甘さ」 何もしないで満たされた時間を過ごせる、心の余裕を目指します

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