心の二つのモードについて 4
前回、「恐れモードにいる限り、全ての人間関係が対立と幻滅で終わり、そのあとは妥協と我慢で付き合っていくしかない」というところで終わりました
ではどうすればいいのか?
自分の心を愛モードにすれば解決です
愛モードにある時、心の中のプロジェクターには愛がセットされます
この時、プロジェクターからは映像が映し出されるのではなく、ただ、愛の光が輝き出すだけです
自分の中から輝き出た愛モードの光は(ってこれは全部イメージしやすくするための例え話なのですが)照らすもの全ての表面的な見え方を通り越し、人が本来持っている”愛”を見えるようにしてくれます
ここで言う”愛”は”本来のその人””その人の本質”という意味です
恐れモードのプロジェクターから出ているものは、プロジェクターの持ち主が持っているものの見方から反映された映像ですが、愛モードのプロジェクターから出た光は、その映像をかき消し、本当のその人の姿が見えるようにしてくれるものです
例えば目の前のAさんも私と同じ、日々愛モードと恐れモードを行ったりきたりしている存在です
恐れモードにいる時には「私は愛されるに値しない、価値のない存在だ」というテーマが心の奥底にあるので、それゆえの言動をしていることでしょう
そして、私も恐れモードにいたなら、私はAさんのそんな言動にいちいち反応します
しかし、もし私が愛モードにいたなら、Aさんのそんな言動は優しく見過ごすことができます
Aさんは、今はただ単に恐れモードにいて本当の自分を忘れてしまっているけれど、本当のAさんは愛そのものだということが見えるからです
Aさんが本来持っている優しさ、強さ、才能、ユーモア、愛情深さが、ちゃんと見えているからです
例え今この瞬間はそれが表に出てきていなくても
表に出てきていなくて、目に見えないものは「ただ単に今は見えないもの」です
なくなっているわけではありません
どんよりとした曇り空の向こうに、いつも太陽があることを私たちが忘れることはありません
曇りの日は確かに鬱陶しいと思うこともあるかも知れませんが、それでも太陽があることはちゃんと知っています
私たちの誰もが本来持っている愛というのは太陽のように、なくなることのないものです
恐れモードはそれを見えなくさせてしまう雲のようなものですが、その向こうに太陽があることを知っている人には、雲がどんなに分厚くてもなんの問題もありません
雲が太陽を隠しても太陽は無くならないし、この状態は一時的なものだとわかっているからです
プロジェクターの例えとは別に、この太陽と雲の例えも非常にイメージしやすいので、このブログでも使っていきたいと思います
恐れモードにいる時は、自分が雲の中にいるので何も見えていません
見えるのは自分の持っている「丸バツリスト」だけ
丸バツリストを携えて、時々見える人影をリストに照らし合わせて「この人は良い人」「この人は悪い人」「この人はすごい人」なんていうふうに判断していますが、「本当のその人」のことは全く見ていません
ただの空想です
愛モードにいる時に私たちが見るものは「本当のその人」です
いえ、厳密には「本当のその人の、ほんの一部」です
その人は今見えているよりももっともっと奥深く、大きな存在です
愛モードにいて相手を見続ければ、さらにどんどん、その人の本当の姿の素晴らしさが見えてくるでしょう
パッと見て全部わかるというような浅いものではないのです
どこまで深く、大きく、その人を見れるのか?
それは自分自身が自分に許した範囲までです
「人は自分を写す鏡」だというのはよく聞く言葉ですが、その本当の意味がこれです
「相手を見て、本当のその人(愛)が見えていない時、私は雲の中にいる(恐れモードにいる)
相手を見て、本当のその人が見えている時、私も本来の自分(愛モード)でいることができている」
そして、自分が自分に許した範囲というのは、「自分が自分に許す、本当の自分を受け入れる範囲」ということです
Aさんの愛が「ちょこっと見える」のは、自分自身の愛を「ちょこっと見る」のを自分に許したからです
Aさん愛を「より深く感じられた」のは、自分自身の愛を「より深く感じる」のを自分に許したからです
愛モードで経験する人間関係は、本当のその人と、そして自分自身への理解が限りなく深まっていく「発見と嬉しい学びの連続」となります
恐れモードの人間関係=妥協と我慢、発展も成長もしない
愛モードの人間関係=発見と嬉しい学びの連続、限りなく深まり、成長していく
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